日本銀行 理事 井戸 清人 氏

日本銀行 理事 井戸 清人 氏

日本経済の明確なビジョン必要


聞き手 編集局長 島田一

―――景気の二番底懸念が後退している…。

井戸 今年春の景気について、私どもが若干の懸念を抱いていたのには大きく二つの理由がある。一つには、日本の景気は国内外における在庫調整の進展と政府の各種施策によって支えられている部分があった。その政府の施策が今年3月末に終わることを消費者が予想し、3月の駆け込み需要の後、4〜6月は大きく下振れるリスクがあると考えていた。しかし現在、エコポイントやエコカー減税の期間延長が検討されており、この部分におけるリスクは回避される可能性が高まっている。もう一つは、現在の日本の生産・輸出の回復は、海外経済、特にアジアの好調に支えられてきた訳だが、昨年からの議論として、この好調さがどの位持続するのかというところに懸念を持つ人もいた。しかし、最近でもアジア経済は比較的順調で、わが国からの輸出も、自動車や電気関係のみならず資本財なども安定的に伸びている。そういう意味でも足元の回復はそれなりに確かなものになっているといえるだろう。

――懸念は全くないのか…。

井戸 昨年第1四半期の経済の落ち込みが非常に大きかった分、その後は急回復を遂げてきたが、今後は、回復のスピードは緩やかなものになっていくと考えられる。また、リーマンショック後の世界的なバブルの崩壊は非常に大きな経済の変化をもたらしており、米欧における過剰債務、過剰雇用、過剰設備にかかる調整、バランスシート調整にはそれなりに時間がかかるだろう。そういったことを考えると、今後、政策変化によって大きく落ち込むということは無いにしても、一本調子に回復していくということも見込めない。

――昨年、世界経済のけん引役となったアジアについては、中国が金融引き締め政策に転じ、人によってはこれがバブル崩壊となり、今後は中国経済が足を引っ張るのではないかという見方もある…。

井戸 最近の中国の対応をみていると、少なくとも政策執行面の懸念は薄れてきている。中国当局も現在の不動産や株のバブル的な状況に対してそれなりの対応をしており、私どもとしても、そうした中国当局の対応には期待している。これは中国だけのことではなく、最近経済が安定してきたインドネシアについても同様だ。また、米欧はバランスシート調整ということはあるにせよ、今年後半には好転してくるのではないかと期待しており、その意味でも二番底懸念は後退しているといえるのではないか。

――一方、日本では消費者物価指数(CPI)や企業物価指数は下落している…。

井戸 日本銀行としては、デフレから脱却し、物価安定のもとでの安定的な経済成長に復帰することが極めて重要と考えている。だからこそ、昨年末に私どもの中長期的な物価安定の理解について「CPIは2%以下でマイナスは許容しない。政策委員の中心値は大勢として1%だ」という表現で私どもの姿勢を極めて明確に発信した。

――デフレを克服するための具体策は…。

井戸 需給バランスの崩れがデフレの一つの要因だとするならば、それに対応して現在の実質ゼロ金利という極めて緩和的になっている金融環境を粘り強く続けていくことが大事だ。また、企業に新しい投資などの動きが出た時、資金が入手できずにそういった活動が出来ないということのないようにしなくてはならない。そのためには金融市場や金融システムの安定をしっかりと維持していくことが必要であり、そのために日本銀行は市場のその時々の状況に応じて最もふさわしい対応を行い、市場に潤沢な流動性を供給している。

――企業金融に関しては、低格付け企業に対する措置も必要という意見もある…。

井戸 短観をみてもわかるように、企業金融の状況は大企業を中心に改善してきている。そうはいっても、まだまだ厳しく、特に中小企業においては多くの困難を抱えているところもある。そういう観点から日本銀行としては資産担保CPの適格要件の緩和、社債・企業向け証書貸付債権の格付要件の緩和、およびそれらの延長など、色々な措置を講じている。資産担保CPの裏付け資産は売掛債権などが多く、こういったものは中小企業にも裨益してくる。一方、低格付け先については、格付をもっているところは大体のところ大企業だ。そのため、一部企業やセクターは困難を抱えているところもあるが、全体としてみれば資金繰りが楽になってきている。しかし、低格付け会社の社債発行については進んでいないという面はある。背景には、企業の信用リスクに比べて収益状況が良くないことがあげられる。一方で、企業の方々と話をしていても「このスプレッドで債券を出すのなら、むしろ銀行から借りた方が安い」という意見もある。そういった理由もあり債券の発行が進んでいないのだろう。日本銀行としては、極めて緩和的な金融政策を続けることで企業の収益改善を促し、信用力が高まることを通じて発行環境が改善していくように努力していく。

――日銀に積極的な金融政策を取らせるために、インフレターゲットも導入すべきだという声もある…。

井戸 現在の状況から申し上げると、先ほどお示しした中長期的な物価安定の理解の水準からみれば明らかに実際の物価上昇率は低いわけで、努力の方向性は見えている。その上で、そのためにどのような手段を使っていくかということについては、市場や民間の方々の意見を色々とお伺いしながらその時その時でベストの選択をとっている。私どもとしては、中長期的な物価安定の理解を踏まえて行動することで適切に対応していくつもりだ。

――民主党政権になり、政策の方向性も変わってきている。新政府と日銀が政策をすり合わせたり、日銀も政策提言を行った方が良いのではないかという声もある…。

井戸 ここでは、物価安定の下での持続的成長のために、金融政策以外でどのような対応が考えられるかについて、一般的な考え方を述べたい。経済成長に関する現在の議論において考えられていることは「需給ギャップをどう埋めていくか」であり、今作っているものがどれくらい売れるか、それを売るためにどれだけ需要を作るのかという発想だ。しかし経済は日々変化していて、特にリーマンショックでバブルが弾けた後は、世界全体で需要のあり方や経済の構造自体が大きく変化していきている。日本では、それに加え、例えば少子高齢化といった変化もあるわけで、その中でどういう成長が望ましいかということについて新しいパラダイムを考えていく必要がある。従来と同じ商品の供給能力を埋めるだけの需要が生まれてくることは期待できないため、将来を考えるのであれば、今後どういうところにニーズがあるのかを考え、そのために新しい商品を作り出すという企業の努力を支援するような形にしなくてはならない。かつて日本が右肩上がりに成長していた時にはそれが出来たが、最近では色々な面で少し硬直感がみられる。もちろん財政状況が厳しいことも背景にはあるが、そういった企業の活動を支援するような方向で、政策・制度を考えていく必要があると思う。また、日本の場合はそういう変化に向けて労働力や生産設備といった経済資源がニーズの高い分野に円滑に流れるような経済構造の柔軟性も必要だろう。日本は長らく終身雇用だったために、なかなか分野間、或いは企業間での労働力のシフトが進まなかった。もちろん終身雇用には良い面もあると私は思っているが、特に現在の少子高齢化時代においては、今ある労働力をどう回していくのかが重要になってくる。そういう変化には、当然ながらある程度の摩擦は起きてくるため、社会的なセーフティネットをきちんと充実したものとすることが必要だろう。

――低金利政策も重要だが、円キャリートレードという形で海外に資金が逃げていっては国内の金融緩和効果も意味のないものになり、そこに中央銀行の金融政策の限界を指摘する声もある。その点、何か新たな手法は…。

井戸 ひとつはホームバイアスといって、日本の投資家が「最後は日本で」と考えれば、円をベースに色々な投資を考えるであろう。一番大事なことは、日本の企業や産業が生産性を高め、安定性を高めることだと思う。その結果として日本で投資することによって安定して利益が生まれることになれば、日本の投資家のみならず、海外の投資家からも資金が入ってくる。そのためには、将来の経済の方向性について明確なビジョンを示したり、或いは金融市場をより使い易い、透明性の高い市場にしていくことが必要だ。そのために私どもも努力していきたいと考えている。(了)