ミャンマー、英米に苦しめられた歴史

ミャンマー、英米に苦しめられた歴史

ミャンマー大統領顧問
U ARNT MAUNG 氏



聞き手 編集局長 島田一

――ミャンマーの現状は…。

大統領顧問 新政府になって自由化され、メディアの規制も無くなったため、君たちも自由に報道してもらって構わない。日本の報道といえば、07年の暴動で日本人ジャーナリストが不幸にも亡くなったが、あの時は外国のメディア側にも問題があった。騒乱を大きくした者の中には、略奪する悪者や、いわゆる外国政府の手先もいた。それを外国のメディアが煽ったため、すっかり英雄気分になった者が多数いたことが、混乱を大きくした原因だ。ミャンマーは外国政府、とりわけ植民地化した英国から様々な迫害を受けてきた歴史を持っている。それを知らなければミャンマーを知ることは出来ないし、我々も日本の人達にミャンマーの歴史をきちんと知ってもらい、積極的にわが国に進出していただきたいと考えている。

――ミャンマーの歴史について…。

 ミャンマーの歴史は、ネパールやインドからやってきた人々から始まる。8世紀頃からピュー族といわれる人々が点在し、次第に小国家を建設した。そして9世紀中頃に中国の雲南から移住してきたミャンマー族がミャンマー中央を流れるエーヤワディー川(旧称イラワジ川)の流域に移り住み、1044年アノーヤター王がミャンマー最初の統一国家パガン王朝を樹立する。パガンには多くのバゴダ(仏塔)が建立された。特にアーナンダー寺院は、申請すれば世界遺産にもなり得るほど素晴らしいものだ。その後300年ほど繁栄を極めたパガン王朝は、13世紀後半に元の侵攻を受けて滅亡する。東南アジア支配を目指した元によってバラバラにされたミャンマーは、その後、上ビルマをタイ系のシャン族が、下ビルマをモン族が支配するようになった。

――1800年代の英国の侵攻について…。

 1800年頃の英国は植民地経営戦略の中で世界中にその力を拡大させていたが、自らが手を下すようなことはせず、すでに英国領にあったインドの人々を使い、ミャンマーと国境を接するアッサム州の人々に武器を渡してミャンマーと戦わせていた。英国人は300人ほど沿道に住んでいた程度だ。しかし、当時のミャンマー勢力は強く、これらの戦いにも勝ち続けた。1818年にミャンマーはベンガル地方の東半分の割譲を英国に要求したが、英国はそれに応じず、とうとう自ら侵攻してきた。ミャンマーに押し寄せてきたのはインド人と英国人あわせて約1000人。結局ミャンマーが勝利し、英国人約100人が亡くなった。それは、過去戦いに負けたことがなかった英国にとって初めての敗戦であり、彼らにとってもまさか負けるとは思っていなかったことだと思う。以来、英国はミャンマーを世界の地図から抹殺しようと必死になった。

――その後、3度の英緬戦争を経て、ミャンマー全土が英国支配下に置かれる…。

 陸からの侵入で初めての敗退を経験した英国は、1824年、今度は海から侵入してきた。それが第一次英緬戦争だ。この戦争で現在のミャンマーの中心部であるヤンゴンは英国に占領され、ミャンマーを代表する仏塔シュエダゴン・バゴダも英国の持ち物になった。1852年の第二次英緬戦争では、英国軍の司令上層部が6人ほど亡くなったが、結局、ミャンマーが負けた。我々は賠償金を払い、さらにペグー(現バゴー)を含む下ビルマの領土を英国に奪われ、これらの地域と二度と戦争をしないという誓約書にサインをさせられた。下ビルマを奪われたことで海への出入り口を塞がれ、ミャンマーは海外へ行くことも出来なくなった。そして、1885年の第三次英緬戦争で、ミャンマー全土が英国の支配下に入った。約400年間ミャンマーが所有していたチェンマイも、その時に英国によってタイに渡されることになった。英国は天然資源に恵まれたこの地域から木材をもらうように交渉していた訳だ。チェンマイは水や川が豊富で、寺院もたくさんある。今でも町中にみられる多くの寺院や遺跡は、我々が所有していた時と変わらない。この地域に住んでいる女性が着ている服装も、ミャンマーの女性の服と全く同じだ。そして英国は、インド州の一部となったミャンマーにインド人を移住させて、インド人を地主や商人として優遇することでミャンマーを支配した。

――その後もミャンマーは英国に対して反発を続ける…。

 1930年代に入ると民族主義運動が高揚し、反乱が相次いだ。その頃の農民蜂起の中にはアウンサン(アウンサンスーチ―の父)の祖父もいた。そして、そういった反乱に対して英国は農民運動のリーダーだったサヤーサンを絞首刑にし、その首を一週間、ミャンマー国民の目に晒した。ミャンマーの人たちは大変恐い思いをし、ますます英国人が嫌いになった。丁度その頃、日本は満州に攻め込み、勝ち進んでいた。ミャンマーの人たちは、英国人を恐いと思う一方で、アジアにも日本のような強い国があるんだ。日本人と仲良くすれば良いかもしれない、と思うようになった。

――1937年にはインドと離れ、英国連邦内の自治領となる…。

 我々はインドと一緒の国ではやっていけないと英国に伝えると、英国はインドとミャンマーを分けて、それぞれを英国連邦内の自治領とした。しかし、その時にまたミャンマー領土の一部をインドに渡すことになり、ミャンマーはとても小さくなってしまった。今でもその地域の川の周辺にはミャンマー人が住んでいる。英国はインドに対して好意的だ。それはインドが300年も英国に支配されていながら、抗議や反乱をおこしていないからだ。しかし、ミャンマーは違う。最初から英国に対して反乱や反発を続けてきたため、インドのような待遇は受けていない。第二次世界大戦が始まる直前、英国はミャンマーに対して、英国と組んで日本を攻めるか、それとも日本と仲良くするかという選択を迫った。その時、インドは英国側についたが、ミャンマーは日本側につくと宣言した。それがまた、英国がミャンマーを敵視する要因となった。

――そういう状況の中で、第二次世界大戦が始まる…。

 英国はミャンマーにあったすべての武器や船、さらに、昔からあった石油工場などもすべて使えないように破壊し、何も出来ないようにしてしまったため、第二次世界大戦時のミャンマーには何もなかった。塩を運搬することも出来なかったため、塩が欲しい時は、畑を燃やしてわずかに取れる塩を食べて凌いでいた。そういった状況の中でミャンマーにきた日本兵が、ミャンマー人と一緒になって力を合わせ、わずか2カ月の滞在で英国人をミャンマーから追い出してくれた。日本兵がミャンマーに来た時の持ち物は、武器と手ぬぐいひとつだけだったため、ミャンマーの女性は何も持たない日本兵に食べ物を作ってあげたり、ちょっとした必要なものを作ってあげたりしていたものだ。月に2頭の牛を提供して、50万人のミャンマーの村が日本兵をサポートしていた。しかし、戦争によって、たくさんの日本兵がこの地で亡くなってしまった。

――1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立する…。

 独立してすぐに、中国が2万人の軍隊を引き連れてミャンマーに侵入してきたが、米国はそれに対して、中国との関係を配慮してか、表沙汰にならないような支援を提案してきた。我々はそれを断り、国連にも訴えた。結局、その時に来た中国人達が麻薬の使い方をミャンマーの人たちに教え、中国人はそれを持ってタイに行き、世界中に麻薬をばらまいた。そうして、ミャンマーは麻薬大国といわれるようになってしまった。独立してから60年間ずっと、我々は米国や英国に苦しめられている。ミャンマーには色々な民族がいるが、その民族同士が仲良くしないように英国が裏からお金や手を回して画策しているため、民族間の紛争が絶えない。武器の使い方を教えたのも米国や英国だが、軍隊に入れるのは一部の民族だけで、ミャンマー族、シャン族、モン族は軍隊に入れず、小さな武器を持っただけでも刑務所に入れられてしまう。独立してもなお、英国人に従う民族や人たちを政府のトップに据えるという仕組みを作ってしまった訳だ。

――その後も数度の軍事クーデターを続けている…。

 もともとミャンマーに住んでいた約20万人のインド人が国境閉鎖でミャンマーから強制退去させられた時、彼らの持ち物はすべてミャンマーのものとなった。それが原因でミャンマーを嫌うインド人は多い。また、隣国タイとの関係も、昔タイの一部をミャンマーが支配していたことで、タイ人はミャンマー人のことを嫌っている。一方で、それまで何も持たなかった政府が、有名な建物や病院などを所有し始めたことで、お金や力をつけてきた。しかし、自分たちの持ち物だったものを政府に取り上げられた人たちは、政府に対して怒っている。1988年、民主化を求める大衆運動が高揚し、1962年から続いたネ・ウィン軍事独裁体制は退陣するが、政府はミャンマーをこのような状態にしてしまった英国と米国に対して嫌悪感を明らかにしたため、外国からの支援も打ち切られ、経済はさらに疲弊してしまった。

――先日の補欠選挙ではアウンサンスーチーさん率いる国民民主連盟が圧勝した…。

 1988年の軍事クーデターで、アウンサンスーチーさんは国民民主連盟(NLD)を結党するが、当時、彼女は集会などのスピーチで「私は政治はやらない。ミャンマーのために手伝うだけ」 と言っており、出馬しても勝てないと思っていた。しかし、もし89年の選挙にアウンサンスーチーさんが出馬していたら、彼女は勝っていただろう。というのも、ミャンマー国民は反乱組織鎮圧のために高額紙幣流通停止措置などを掲げる政府に反感を抱いていたからだ。彼女はそのことを知らなかった。確かに英国からミャンマーに戻って来た彼女に対して、当初、彼女の活動を英国的だとして批判の目で見る人もいたが、あれから20年たった今、彼女はミャンマーのことをきちんと勉強し、今では国民にも慕われている。きっと、大丈夫だ。(了)