日本人は戦国武将の知恵を学べ

日本人は戦国武将の知恵を学べ

作家
明智 憲三郎 氏



聞き手 編集局長 島田一

――「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社)を書こうとしたきっかけは…。

明智 きっかけは先祖の起こした事件の真相究明に尽きる。私が20代のとき、ある書籍によって「明智光秀が恨みで織田信長を殺したというストーリーは、後世の軍記物として作られた話であった」という事実を初めて知った。子供の頃からその事実を知るまで、光秀の子孫として後ろめたい気持ちがあった分、その衝撃は大きかった。それ以来、どうして光秀が信長を殺すということになったのか、真実はなんだったのかを追い求めるようになった。ただ、やはり働きながら自分で研究することは難しく、研究者が書いた書物を少しずつ読んでいく日々が始まった。

――真相究明の「旅」が始まったと…。

明智 しかし、どの本を読んでも納得のいく答えがでず、研究者の研究方法そのものが間違っているのではないか、という疑問を抱くようになっていった。私はエンジニアとしての仕事柄、論理的に物事を考える。武将とは現代でいうところの経営者と類似した立場だと言えるが、論理的に考えるならば、経営者が恨みで殺人を犯すことはあり得難い。謀反が失敗すれば一族が滅亡する。そのリスクを冒してまで光秀は信長を殺害したのだ。理由が恨みでないのなら一体何だったのか。また、失敗しない自信があったから謀反に踏み切ったとも考えられるが、その自信の裏には何が隠されていたのか。さらに言えば、私が自分の仕事で経験してきた現代のプロジェクトは簡単には成功しない案件ばかりだったが、なぜ「織田信長殺害プロジェクト」はいとも簡単に成功したのかといった疑問が次々と湧いてきた。

――なるほど…。

明智 研究者の本を読んでいても仕方がないと感じ、10年ほど前から当時の史料を実際に読み始めた。読む前は「研究者が散々調べつくした史料を今更読んでも新たな発見は無いだろう」と期待していなかったが、読み始めると研究者が取り上げていない情報が結構あることに驚いた。研究者は定説に沿った考え方をしがちで、定説に沿っていないものは選ばない傾向がある。警察用語ではこれを消極証拠と呼び、冤罪が生まれる原因にもなる。これとまったく同じことが歴史学で起きている。

――どのあたりから定説を覆す自信を持つことが出来たのか…。

明智 まず、今まで定説と言われているものの根拠が、あまりにも薄弱・脆弱なものだとわかった。次に定説の根拠を作ったのが豊臣秀吉だということがわかった。この時点で政治的に作り出された物語だという視点が生まれ、なぜ光秀が追い込まれたのか、政治的な動きはどうだったのかという疑問に移る。最初私は、長曾我部と光秀は盟友であり、本能寺の変によって四国攻めは中断されたため、長曾我部征伐の回避が答えだと考えた時期もあったが、直接的な動機としては薄い。やはり、光秀の心を動かした最大の理由は、信長の唐入り(中国大陸侵攻)構想だ。天下統一すれば戦が無くなり、安泰な日々が送れると思っていた武将達にとって、さらなる戦、知らぬ土地で子孫が死ぬかもしれないという危機感が、きっかけとしては十分だろうと考えている。

――秀吉もそうした光秀の謀反を察知していた…。

明智 我々日本人はどうしても大河ドラマなどで「主君に対して忠実な家臣たち」というイメージが植えつけられているが、本当の戦国の世は果たしてどうだったのか。紀元前に戦国時代を経験している中国では、生き抜くための知恵として諸子百家が生まれた。その中でも性悪説を説き、法を以って統制を執るといった考えの韓非子は「君臣の関係は利害打算的」だと説いている。戦国の世を生き抜くためには、韓非子同様の論理・趣向・方法を持つ武将もがいてもおかしくはなく、当然のこととして秀吉も信長に取って代わるべく光秀の謀反を知っていながら知らないふりをしたと考えられる。この点、韓非子を一番気に入っていた秦の始皇帝は儒学を敵視していたが、その始皇帝が一代で途切れたのと同様に、織田信長と豊臣秀吉も一代で終わった。一方、長期政権を築いた漢の劉邦と徳川家康は戦国の世を勝ち抜くために始皇帝同様、韓非子的な考えを持っていたが、最後に天下を納めるために採用したのは儒学だった。

――著書では光秀の謀反を家康も知っていたと…。

明智 彼らの利害が一致したのだろう。光秀が決意したのは天正10年2月(本能寺の変の4か月前)。1月に長曾我部元親が信長の要求を蹴飛ばすと、2月に信長は征伐軍派兵を命じたので、そのあたりから光秀は本能寺の変を意識したようだ。武田方の甲陽軍鑑をみると、2月に光秀が「謀反を起こすから手伝って欲しい」との使者を武田勝頼に送っている。しかし、謀反を起こすのに、使者を送ったのは武田家だけだったのか。美濃、尾張を抑える織田軍を討つためには、近江、丹波の光秀軍とその背後にいる武田家、さらに徳川家による挟み撃ちの恰好が最適だ。謀反というのは、信長を殺せばそれで終わりではなく、織田軍そのものを制圧しなければ成立しない。その点を踏まれれば、使者を送ったのは武田家だけではなく、徳川家にも当然送ったのだろうという事が推測される。そして家康は謀反を知っていたからこそ、家康を暗殺しようと計画した信長の招きを受け入れ、少人数で重臣を率いて本能寺まで来ることになっていたのだ。

――改めて「歴史は為政者が作る」と感じるが…。

明智 為政者であると同時に、為政者が出した元ネタが江戸時代にこれだけ広がってしまったということは、一つのビジネスになったということが考えられる。木版印刷の発明によって江戸時代前期には出版事業が流行った。面白い本を出版すれば売れるという時代に、ヒットしたのが軍記物だった。いろいろな作家が面白い話をどんどん膨らませていった。これが江戸後期になり、歌舞伎や人形浄瑠璃といったものが人気となると、それらの題材としてこれもまた軍記物が使われていった。さらに同じ構図で現代でも軍記物を使って歴史小説が書かれ、それを原作としてNHKの大河ドラマが放送されている。軍記物や小説を書いた本人はもちろん創作として書いている。しかし、それを読んだ人や観た人は、これが真実だと感じてしまう。光秀が信長を恨んで殺した、単独犯行だ、と書いている惟任退治記(秀吉が家臣に書かせた本)は、誰がみても秀吉が元ネタを作っているということが歴然とわかるが、そのことを誰も歴史学者は言わないことが、今でも不思議で仕方ない。

――この本を出版され、日本史が大きく変わるのでは…。

明智 400年以上に渡って作りこまれてきた歴史学は、ものすごく高く、分厚い壁だ。その壁を崩すことは容易ではなく、ひょっとしたら400年かかるかもしれないといった印象すら持つ。まず、研究の根幹部分は絶対に動くことはないだろう。彼らは50年前に大先生が書いた本に今でも忠実に従っている。そのため変えられるとしたら、如何にその周辺が変わり、次の世代にどう残していくかが必要となる。また、マスコミも定説一辺倒ではなく、私の書いたような事も報じていくなどすれば、少しずつ氷が溶けるように歴史学が変わっていくだろうが、まぁ、私の生涯では歴史学が変わった姿をみることはできないだろう。

――この本で一番主張されたい事とは…。

明智 やはり戦国武将観を変えてほしいということだ。恨みつらみで人を殺すような人々ではなく、一族の責任を負った人間がどういった基準で決断を下したのか。彼らは誰もがベストを尽くしてやっていた。そういった人々のせめぎ合い中では、誰が良い、誰が悪いという話ではない。そのあたりの歴史観を理解する必要がある。もう一つは、歴史に学ばなければならないという点だ。そのために本当の歴史を知らなければならない。戦国の武将達は生き残るために諸子百家を一所懸命に勉強し、身に着けていた。我々現代人は本当の戦国武将の知識・論理を学び、身に付けているのか。表面だけしか見ていないようにみえる。戦国武将の持っていた知識と現代人の知識のギャップがすごくあると感じる。諸子百家、戦国武将たちの知恵は、現代の経営においても「戦わずして勝つ」という孫子の兵法の核となる部分が取り入れられているランチェスター戦略に代表されるように、経営者にとって必要不可欠な考え方だ。また、外交関係をみてもアメリカ人が、戦国武将が諸子百家を一所懸命学んでいたのと同様に、諸子百家の考え方を研究し、自国の利益を守るために、積極的かつ冷静な判断を下している。改めて、戦国武将の知恵を我々日本人が取り戻す必要があると感じている。