建前への固執が政治の問題点

建前への固執が政治の問題点

前参議院議員
ニューカルチャーラボ代表
山田 太郎 氏


聞き手 編集局長 島田一

――政治の世界は民間の常識がまるで欠けている…。


山田 やはり国会議員が2世3世や、官僚出身者ばかりであるところが大きい。そのために歪みが生じている部分は多く、その象徴が、多くの政治家がコストを度外視して聞こえのいい「建前」に固執している有様だ。例えば、企業を潰してはならない、農地を守らなくてはならない、福島には住民を戻さなければならないというのが典型で、これらの考えは確かにもっともではあるが、民間であればコストの問題で断念せざるをえないことを、無理をして維持し続けている。その結果発生したのが、莫大な財政赤字や非効率な資源配分といった様々な弊害だ。

――何故そんなことになっているのか…。


山田 建前への固執は与野党に通じる問題で、野党は現実を無視した与党を批判するどころか、もっと現実離れした政策を行えと叫ぶばかりだ。おそらく、多くの政治家にとって再選が至上命題で、落選はほとんど死を意味しているのがこうした現状の原因だろう。彼らは政治家以外の生き方をしたことがないために、職を賭けてでも正しいことを行う気骨がない。日本の生産性を向上させるためには、人材の流動性を高める必要性があるのは明らかであるにも関わらず、政治の世界ではその意見はタブー視されているが、これもすべて政治家が職業化しているのが原因だろう。例えば参議院議員の半分程度を裁判員のように抽選で選ぶような大胆な改革を行わない限り、民間の常識を政治に持ち込むことは難しいだろう。

――それで良識の府の役割を果たせるのか…。


山田 むしろ現状で果たせていないのが実態だ。はっきり言ってしまえば、法案の内容は与党の政務会で決定されており、国会での議論は茶番のようなものだ。与党の議員は党内の決定事項に基づいた党議拘束に従って主張するだけであり、建設的な議論が国会で行われることはない。与党にも若い議員は大勢いるが、その意見が省みられることなく、特に参議院議員は多くが賛否票を投じるだけのボタン押しマシーンとなってしまっている。党議拘束は確かに政党の運用上便利ではあり、議員としても党議拘束に従うのは楽だ。一度党内で試してみたことがあるが、党議拘束がないと一つ一つの法案を自分で解釈せねばならず、正直に言えばいっそ党にどうすればいいか決めて欲しいと感じることもあった。しかし、そのストレスに向き合うのが国会議員の責任だろう。

――日本の産業政策の問題は…。


山田 最も問題なのは、生き残らせるべきなのは産業であって、企業でないことを誰も理解していないことだ。たとえ企業が潰れたとしても、産業さえ元気であれば雇用は維持される。具体的に目先で最も問題なのは、日本の自動車産業が水素自動車開発を進めていることで、これは電気自動車が主流となっている世界の流れを無視している不合理な選択だ。それでも日本政府が水素自動車を支援しているのは、電気自動車は既存のエンジンが不要となることから、自動車メーカーが既得権益を失うためだ。確かに自動車産業は、日本の重要産業ではあるが、既存の企業を守れば産業が生き残るというものではなく、政府はむしろ産業を育てることを意識するべきだ。

――政治家や官僚は何を考えているのか…。


山田 実は意外なことに、案外一生懸命な方ばかりで、私が政界入りする前に想像していたような絵に描いたような悪人はいなかった。法律を見ても立派な内容が多いが、問題は法律を実際に運用する際におかしくなることで、例えば財政法4条で「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」と規定されており、明確に赤字国債の発行を禁止しているにも関わらず、特例法を恒常化させるようなことが運用レベルで行われてきた。また、企業経営者として国会の議論で最も違和感を覚えたのは、政府にも国会にも売上を増やすという発想がないことだ。企業経営ではコストは売上を増やすためのものだが、これまでの赤字国債はそれによってどう日本経済が活発になり、税収が増えるといった発想が全くなかった。官庁にも年末に余った予算を使ってしまえという風潮があるが、民間出身者としてはありえない発想だ。

――表現の自由にも問題がみられる…。


山田 今脅かされているのは漫画やアニメ、ゲームなどが含まれるコンテンツの自由だ。これらを取り締まりたい勢力は、オリンピックを控えていることもあり、日本がポルノ漫画大国と言われたくないという考えがあるのだろう。これまでも規制を強めようという動きは幾度かあり、例えば児童ポルノ禁止法改正案の附則第2条で、漫画やアニメが性犯罪に繋がっていることを前提とするかのような文章が盛り込まれようとしたことがあった。ただ、実際にはそのような因果関係は立証されておらず、私も強く批判活動を行ってきた。ポイントは、実際に児童が性暴力に遭った結果発生した写真などのいわゆる「3次元」のコンテンツは規制する必要が当然ある一方、漫画やアニメ、ゲームなどの「2次元」については児童を脅かすことがない以上、規制する必要はないということだ。

――TPPに伴う問題も取り組んできた…。


山田 TPPでは、著作権侵害を非親告罪化するという規定があり、これが日本のいわゆる同人活動を妨げる恐れがあった。実際、韓国では「著作権トロール」と呼ばれる弁護士が現れており、彼らは少しでもオリジナル作品に似たコンテンツを見つけ出しては告訴し、被告からお金を巻き上げて告訴を取り下げる行為を行ってきた。同じことが日本でも起きれば、商業メディアとは別に、日本が誇る文化として発展してきたコミックマーケットなどでの二次創作活動が脅かされていただろう。そもそも、著作権の非親告罪化は世界の流れではあるが、欧米ではどこまでが規制されるか、どこまでなら利用してもいいのかというフェアユース(公正利用)の議論が行われてきたが、日本ではそれがまるで行われておらず、欧米に比べても非親告罪化の影響が大きくなりやすい状態だった。

――日本の同人活動は世界的に評価されている…。


山田 実際、写経もそうだが、日本は昔から真似て上達するのが伝統だった。漫画やアニメの世界でも、出版社の賞の受賞者がプロの漫画家になるだけでなく、むしろ同人活動を行ってきた表現者がYouTubeなどで取り上げられ、脚光を浴びる時代になっている。日本では同人活動によってプロに近い素人が育成されており、それが世界的な評価に繋がってきた。しかしTPPによりそれが冷や水を浴びせられる可能性があり、国会での委員会質疑を何度も続け、関係大臣・省庁へ訴えた結果、完全海賊版、つまり漫画や小説をコピーしたり、アニメや映画をネット配信したりする行為のみ非親告罪にできた。これにより、二次創作活動の場であるコミックマーケットは活動を継続することが可能になった。

――有害図書指定問題にも取り組まれている…。


山田 昨年12月に菅官房長官が、書籍類への消費税に対する軽減税率導入について、出版社に自主的に有害図書の線引きを行うよう求めた問題があった。これは文化的に重要であることから図書には軽減税率が認められるとはいえ、ポルノ図書まで減税する必要はないだろうという考えによるものだが、場合によっては事前検閲になってしまう恐れがあった。結局、参議院予算委員会での私の質疑に対する安倍首相の答弁で検閲は行わないと明言したためにこの問題は立ち消えになったが、現状でも県によってはとんでもない規制を行っているケースがみられる。例えば長崎では春画画集でさえ有害図書に指定されており、書店は区分陳列を行うことが求められている。書店は区分陳列が手間であることから、問題の書籍を取り扱わなくなるケースが多く、成人でも該当書籍を実質入手できなくなるほか、物流の問題で隣の県でも書籍が流通しなくなる場合もあり、長崎県の問題が他県まで影響を及ぼす構造になっている。

――それらが自主規制の強化という形で現れている…。


山田 実際、「クレヨンしんちゃん」や「キューティーハニー」、「北斗の拳」といった昔からの有名作品でも、卑猥であるとか、暴力的であるといった理由で自主規制が進んでいる。最近の作品でも、「ワンピース」で首が刎ねられる描写が許されないとか、「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版が一部カットされて地上波放送されたり、「おそまつさん」がDVD化される際にパロディやギャグを編集されるなど、自主規制は至る所でみられている。一方で、これらの表のメディアに対し、裏の同人活動はそうした自主規制が進んでいないからこそ、有害図書規制を強化したい勢力は「青少年健全育成基本法案」などを作って規制したいと考えているのではないか。

――なぜ規制が進んでいるのか…。


山田 端的に言えば、票になるからだろう。例えばPTAに所属している親が、学校を通り越して、「うちの子供がこんなものをみているが、なぜ規制しないのか」と文部科学省や政治家に陳情するケースがみられているようだ。本来はそんなものは家庭で対応する問題なのだが、秩序を好む文教族の議員はまともにとりあって、文部科学省の官僚になんとか規制できないか要請する。また、海外からの圧力も重要な要因で、国連女子差別撤廃委員会も、日本のゲームやアニメ、漫画が女性への性暴力を助長しているとの勧告を行っている。しかし、私も直接同委員会に反論を行ったが、文化というのは国ごとに異なるものであり、グローバルスタンダードを押し付けていいものではない。例えば、ヨーロッパではパンチラ(パンツがチラりと見える表現)の規制が厳しい一方で、豊満なバストの表現は許容されているが、それだって文化圏によっては十分不道徳的ということになるだろう。個人的法益はグローバルスタンダードがあってもいいが、社会的法益は文化や風習の差異を尊重し、それぞれ違う形が許されるべきだと考えている。